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 「心の病やどうしようもない精神的苦痛は、催眠療法で治せます」と開口一番、井手先生は訴える。日本の催眠療法の第一人者として、この言葉を裏付けるほどの実績と能力を先生は持っている。
 “催眠療法”の世界は、不適切な評価と誤解、不十分な療法がまかり通っているのが現状だ。たとえ、過去において催眠療法で治らなかったという人も、なぜ治らなかったのかという本当の理由までは知らないだろう。
 催眠療法において最も難しく能力が問われるのは、催眠をかける技術ではない。適切な心理療法で、精神的な悩みや身体的症状の苦しみをいかに修復できるかにかかっている。
 「心理療法は理性(認知)の修復をし、催眠は情動(感情)の修復をします」と井手無動先生は説明する。これら両輪の適切な活用があって、はじめて完全に心(脳機能)の問題は治せるのだ。
 「だから諦めて欲しくないのです」と先生は繰り返す。適切な心理療法の下で催眠療法を活用すれば、あなたの問題は解決できる、と先生は断言するのである。

■トラウマに働きかける催眠療法

 多くの人は“催眠療法”の名前を聞いたことがあるだろうし、おぼろげながら内容もわかっているかもしれない。だが、世間一般的な評価や判断をして欲しくないと、先生は強調する。そして、催眠療法の真の効果と価値を知って欲しいという。
 催眠療法とは、催眠術を利用して行う精神療法の一つである、本人が気づくことが出来ない無意識(心の深層)の領域において病の原因を見つけ出し、解消させるための最適な方法とされている。心の問題は、薬だけで根本から改善することはできない。心の奥に本人が気付いていない歪みやシコリ、すなわち“トラウマ”が原因として存在しているからである。
 催眠療法と催眠性暗示は異なる。心の病や精神的苦痛の原因を催眠状態に誘導して、暗示だけで消し去ることには無理がある。トラウマが存在するからだ。トラウマが心の傷や苦痛を作っている。その多くは、意識されない過去の記憶や抑圧された感情からの働きかけによる。似たようなものにPTSD(心的外傷後のストレス障害)がある。心の傷による後遺症である。これも、症状を消そうとする直接的な暗示だけでは解消できない。症状を作っている原因がなくならない。
 どうやら、このトラウマが私たちに著しい影響を与えているらしい。そのトラウマの理解が不可欠のようだ。「ここから少し、脳について語らせて下さい」と前置きして、先生は語り始めた。

■子供時代に刻まれたトラウマ(心の傷)

 「最近の脳科学の研究における技術的な進歩には偉大なものがあります。視覚的に脳の働きや疾患部分を見ることが容易にできるようになりました。脳科学の進展によって、心という精神の複雑な働きが、実は、脳の機能と脳内伝達物質(ホルモン)などに密接に関連していることが分かってきたのです」と、先生は語り続ける。たとえば、脳内の神経伝達物質セロトニンを増やすことによって、“うつ”や“強迫観念”“不安”などの症状が軽減するのだというのである。
 「では、私たちが子供時代に、慢性的なストレスにさらされていたとしたら、そのときの脳内ではどのような現象が起きているのでしょう」と、問いかける先生。「子供時代のトラウマ(心の傷)は、成長過程において、脳内の神経細胞に不適切な回路網をを形成していきます。そして、不適切な回路網(ニューラル・ネットワーク)はその場所によって、思考や判断、感情の表出など、精神世界に悪影響を作り出すのです」(井手先生)。これは驚くべき事実であり、恐怖さえ感じる。精神活動とは言え、脳への物理的な外傷の影響を受けているのである。
 また、脳内神経伝達物質であるさまざまなホルモンの不安定な分泌によって、気分の障害を起こす。さらに、「ストレスホルモンの過剰な分泌によって脳細胞の死滅というダメージが発生し、記憶や情動系(大脳辺縁系)の混乱を招くとともに、自律神経系と内分泌系のストレス反応による症状(さまざまな心の病や身体疾患)を作り出しているのです」(井手先生)。

■心の奥底に刻まれるトラウマ

 私たちは自分の心理や行動の理由を説明できないことが多い。これにお気付きの人は多いだろう。なぜそういう気持ちになるのか、なぜそういった決断をしてしまうのか、なぜこのような感傷的な気分になるのか分からない。そうした様々な感情は、すべて意識できない(無意識の)情動系(大脳辺縁系)から生じているという。こういった無意識の感情に人は逆らえないのである。ryouhou.jpg
 「トラウマの心(脳)への働きかけは、意識化されないまま進行します。心はそれと気付かずにトラウマの影響を受けてしまっているのです。子供のころの環境(家庭や学校など)の中でつくられたネガティブな感情は、自らの心の中(脳内)で繰り返され、無意識の中に形成されてしまっています。このままでは、私たちはトラウマから逃れることができません」と、先生の話は核心的な内容に近付いていく。
 私たちの毎日の生活で繰り返される不満やいじけ、怒り、嫉妬などの情動ストレスは、普通は前頭葉で制御され、時間とともに穏やかな心理状態を取り戻す。ほとんどがそう信じられている。だが、ストレスが強い場合やトラウマが絡んでいる場合には、これがなかなか治まらないのである。
 「情動系と呼ばれる大脳辺縁系で激しく繰り返される感情はなかなか静まりません。特に、トラウマが原因となり発生している場合、トラウマを作った出来事と情動の記憶とが抑圧され(忘れ去られ)ているので、理性の場であり、唯一感情を制御できる前頭前野では、情動の興奮を抑える理由が見つからないからです」と、先生は続ける。